2012年3月23日金曜日

東京の街が奏でる


昨日のアンケートには書くべきことを1%も書けなかったので、オザケン本人に届くことはないと思うけど、昨日の「東京の街が奏でる」コンサートについての感想をここに。

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学生時代にはグレッチのテネシアンを探し求めて東京の街を東へ西へと彷徨い…、結婚式の二次会では自分のやってたバンドのメンバーに「それはちょっと」をお願いし…、その二年後くらいには夜中にグズった赤ん坊を抱っこをしながら「LIFE」に合わせて夜更けまで踊り…、最近では全然寝る気配を見せない(また別の)赤ん坊を負んぶしては「地上の夜」やら「天使たちのシーン」を子守唄に歌い…、四半期毎に妻と夜中に「うさぎ!」最新話について語り合い…。

そんな「信者」以外にピッタリ来る言葉を探すのが難しいであろう僕なのに、なんと、なんだか自分でも意外なことに、オザケンのライブに行ったことは今までなかった。
十数年前に関して言えば、あまりにも「王子」「王子」と騒がれていて、気が引けていたというのもある。それは間違いない。しかし、それ以上に、自分がどれほどオザケンの紡ぎ出す言葉や歌にガッチリと心を掴まれていたのかに気付くのにずいぶん時間がかかったというのが、一番の理由だと思う。

「僕は独りで生きることを学ぶさ」とかなり本気で思っていたけど、やはり気が変わって(?)結婚をして、そして子供も生まれた。仕事と家庭の両方に真摯に向き合う時、そこには様々な問題がある。そういった様々な問題について対話する相手は、妻であったり、今は日本にいない親友であったり、そして、(一方通行であるとはいえ)歌や文章を通しての小沢健二であったのだ。

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二年前、ひふみよツアーのチケット争奪戦に全敗した時、妻はこう言った。
「うさぎ!読者には優先的にチケット売ってくれればよかったのにね」
…いや、それは無理というものだし、あまり慰められた気がしないぞ。

その後、二番目の子が生まれ、上の子は僕が「木も草も眠れる夜が過ぎるから」とか鼻歌で歌うと「きみにいっつもでんわをかけてねむりたいよ」と合わせてくるぐらい情操教育が行き届いた子に育った(笑)。

そして、今回、またしても、チケット争奪戦全敗。ショック…。

たまたまこのブログの最近のエントリをご覧になった方であれば「あれあれ?」と疑問を抱いてもおかしくないところ。ここ最近、「ひとりオザケンマラソン」「続・ひとりオザケンマラソン」などと称してオザケン全曲集を聴きながら2回に分けてトータル6時間近く走り続けるだのなんだのとオザケンづいていたけど、それは決してコンサートに向けての予習ではなかったのです!

幸運にもチケットを手にした人々を祝福しつつ、その一方で「自分は自分なりの方法で小沢健二の歌に向き合おう」と考えての、いわば空騒ぎだったというわけで。虚しくなかったかと問われれば、「まあ、微妙なところですね」と答えていたかもしれない…。

それがなんと、直前に、チケットを定価で譲ってくれるという天使のような方が現れ、今回の「東京の街が奏でる」コンサートに参加できることになったという!!!

捨てる神あれば拾う神あり、じゃないけど、願いはこうやって叶うこともあるんだなと、その時点でちょっと涙腺が緩む。

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そして、翌日というかその日の夕方、いよいよ待望のコンサート。

音、音楽、歌、言葉、空気については僕にはうまく言葉にできないから、それぞれについては書かないけど、とにかく全体を通して楽しかったし素晴らしかった。

ただ、その中にいて五感を研ぎ澄ませるうちに、不思議なもので、そこで繰り広げられる光景とはまた別のものが思い出されたりした瞬間があった。感想としては特にそこらへんについて書こうと思う。

誰だってそうだろうけど、日々生きているといろいろある。けど、この一年は、なんというか、とにかくひどかった。ひどかったことの筆頭といえばあの地震そのものだけど、僕の心に引っかかり続けていたのは別のことだった。

「こんな状況なのに、経済界は金儲けの算段しかしていない」「テレビや新聞の伝えるメッセージを疑うことなくそのまま受け取る人が多すぎる」「現在の貨幣経済のあり方そのものを疑う声は皆無で、金儲けは必要という大前提の下で全ての議論が進んでいる」など、この一年、僕としては心穏やかではいられない理由がうんざりするほどあったのだ。毎日。

「うさぎ!」「ひふみよ」サイトでの小沢健二の言葉は、必ずしもいつも僕の考えとぴったり一致しているわけではなかったけれど、当然のこととして皆に受け入れられている現実に疑いの目を向けてみるという点では通じるところが大きかったし、僕よりどうやらだいぶ賢くて世界中の現実をその目に見ているであろう人もそうしたオルタナティヴな見方をしているのかと思うと、すごく救われたものだ。

そんなふうに救われたからというのもたぶんあったんだろう。この一年間、オザケンの曲を新しいのも昔のもたくさん聴いた。子供にたくさん歌ってあげた。グレッチを掻き鳴らした。

コンサート中のいろんなタイミングで、そんなことがちょっとずつ思い出されてきたのだ。もちろんこの一年間のことに限らず、もっと前のことも含めて。

そんなわけで、すごく楽しみつつも、時々、涙腺が緩んだりした。

涙ってのは不思議なもので、なんというか心が洗われるような効果がある気がする。ちょっと恥ずかしいけど。

それから、コンサートの中のあちこちに散りばめられたオザケンのモノローグを聴いて僕は笑ったし、楽しい気持ちになった。そして、それと同時に、心がまた一段と自由になった気がしている。「うさぎ!」の新しい話を読んだ時のように。

会場に来ていたたくさんの人たちにはどういうふうに届いていたんだろう。

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ああ、それにしても素晴らしい時間だった。

上に書いたような物思いに耽っていたのは、それぞれ一瞬の出来事であって、基本的にはもうずーーーっと、わくわくしながら、音、音楽、歌、言葉、会場の空気に没入して楽しんでいた。

オザケン、素晴らしいコンサートをありがとう。


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いつの日か、家族連れでオザケンコンサートに行ける日が来ればいいなあ。
屋外フェスみたいな感じで。

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